欠けた口紅



「……これは?」
思いかけずミッターマイヤーの懐から零れた口紅を拾い上げて、ロイエンタールは首をかしげた。それが、奥方の物であると一瞬で推測が付いたとは言え、ミッターマイヤーにはとても不似合いに思えたからだ。快活で公明正大、眩しい程背筋の伸びたその男は、およそ女の色気とか女臭さには無縁。それは彼が既婚者で且つ妻以外の女を知らないという、近年希に見る純粋な(無垢、という言葉さえしっくり来る)印象と、その割に家庭臭さがない事に機縁している。
その彼が、まるで女物の化粧道具(しかも口紅と来た物だ!)を懐に忍ばせていたなどと。ロイエンタールは拾った口紅をしげしげと観察する。
「ああ、エヴァのだよ」
「そんな事は解っている。まさか卿がそんな所で色気付く訳あるまい」
赤いマントの元帥は、親友の意図を掴みかねてきょとんと目を丸くして、一瞬遅れて笑った。
「……ま、っさか俺が付けるとでも思ったのか!馬鹿だな卿は!」
「馬鹿とは何だ、卿に奥方にも言えないような趣味があったのかと心配してやったんじゃないか」
無遠慮にキャップを外す。想像していたよりずっと毒々しい紅色の口紅は、途中から不自然に折れていた。欠けて残り少なくなったそれは、それでも特有の化粧品の匂いと、その持ち主のメス臭さを強烈に放っていた。
「折ってしまったから新しいのが欲しいと言ってたんだ。たまには化粧品くらい買って帰っても罰はあたらんだろ。」
男が口紅を買うなんて恥ずかしいとか、そう言う意識はないんだろうな、とロイエンタールはとても幸せそうに笑うミッタマイヤーを見た。
その笑顔に、やっぱり口紅は似合わないような気がした。紅色だけが、妙に浮いて生々しい。
「でも買いに行くにしても、銘柄とか色が解らないから持ってって…ちょ、何するんだロイエンタール!」
ロイエンタールはあろう事かその口紅で、自分の唇に薄く紅を引いた。
口紅なんて引き慣れていないし鏡もなかったから、口の端から少し紅色がはみだしたのが、彼の美貌と相まって血を吸ったばかりの吸血鬼みたいな不気味さ。
「ロイ…」
「目を瞑れミッターマイヤー」
言うが早いか、ロイエンタールはミッターマイヤーの抗議も無視して、親友の頬に唇の触れるようなキスを落とす。
「ッ…………!」
絶句して、頬の口紅を拭き取る事すら忘れて立ち竦むミッターマイヤーに、ロイエンタールは笑った。
「今時処女でもそんな反応はせんよ!卿はやっぱり面白いな」
「う、う、うるさい!冗談が過ぎるぞロイエンタール!!」
平素なら、何万という兵士達も萎縮する宇宙艦隊司令官の一喝も、頬に紅、顔色もそれに負けないくらい紅潮して声も震えていながらでは、威厳の欠片もない。
「いやいや、円満な夫婦関係と言っても刺激が欲しい時もあるだろう。たまには口紅の一つでも付けて帰ってみたらどうだ?案外、知らなかった妻の裏の顔が見れるやも知れんぞ」
「そんな物は見たくない!」
今頃やっと、口紅を落とす事に思い至ったミッターマイヤーが、子供のようにごしごしと軍服の裾で頬をこするのがまた面白くて、ロイエンタールは久しぶりに腹を抱えて笑った。
「ところで、これ返して欲しいか?」
「いらん!」
ロイエンタールがひらひらと口紅を振ってみせるのを、ミッタマイヤーはゆでだこのように真っ赤な顔をしたまま、大股で追い抜かして行く。
くっくっくと笑いを抑えきれないまま、前を行くミッターマイヤーの後ろ姿を見ていた。


そんなに怒らなくても。マーキングされていたから、仕返ししてやっただけじゃないか。



双璧は常に黒の片思い一方通行で。でもこの勝負は完全にエヴァに軍配・









歪んだ愛情



「あれだけは本当に気に喰わん」
普段から清廉を絵に描いたような友人が、たまに零すこういう愚痴は非常に新鮮だ。
妻以外女を知らないとか、誰とでも気がよく話せるとか、自分から見たらまるで天然記念物か何かのように稀少な性質の持ち主の彼も、こんな人間らしいところがあるのかと嬉しくなる。本人は不快で仕方ない心境だろうが。
「卿にそれだけ嫌そうな声を出させることが出来るのは、あの軍務尚書殿くらいだな。あれは俺も気に喰わんが、そういう意味では貴重な存在か」
「ふざけるなロイエンタール!俺は今とても憤慨している!」
「見れば解る。卿はとてもわかりやすいからな。で、また軍務尚書殿に何か言われたか?」
「………言われた」
途端にむすっと黙り込んだミッタマイヤーに、ロイエンタールはおや、と首をかしげる。こんな所で口ごもるような性格ではないはずだ。
「卿がそんなところで言い淀むなんて珍しいな。よっぽど何か癪に障ったのか?」
からかうように探ってみても、無言。こちらを見上げても来ないから、見えるのは蜂蜜色の髪ばかり、グレイの瞳の表情を読むことは出来ない。
「ミッターマイヤー?」
「……………卿のことを」
「俺のことを?」
「卿のことを、なんやかんやというものだから、腹が立った」
「ほぅ」
にやける口元を手で覆う。外気に晒されて冷えていた手が、上がり掛けた体温を静かに諫めた。
「俺は随分愛されているな」
「自惚れるな」
がっと肘で小突かれて、我慢するのも何だと、声を立てて笑う。
「照れるなミッターマイヤー。卿の気持ちはよく分かっている」
「そんな台詞に騙されるのは、おまえのふざけた内面を知らない女だけだ…!」
いや、意外と皇帝まで騙せたぞ、という言葉は飲み込んで、代わりに口元に笑み。やっとロイエンタールを見た親友の顔は、からかった甲斐があるものだ、紅潮していた。
「そんな余裕ぶって、確かに卿は愛されているかも知れんがな」
「ん?」
追いつめられた小動物が、最後の抵抗を見せるときのよう、ミッターマイヤーの瞳が危険に揺れた。
「軍務尚書殿だ。卿の居ないところでまで卿の話題。案外陛下より気に入られていたりしてな?」
「な、」
それ以上言葉は続かなかった。してやったりと、人の悪い笑みを浮かべる親友に、そんな顔も出来たのか!と驚く余裕はさすがになかった。
ミッタマイヤー自身にもきっと根拠のない、売り言葉に買い言葉とはわかっていても、想像するだにぞっとした。














枯れたおはな



ロイエンタール上級大将の元に奇妙な贈り物が届くという噂が、密やかにローエングラム公の元帥府を駆けめぐった。

「ロイエンタール、どうやら手ひどく女を振ったんだって?」
「何の話だ」
呼び止められて、親友を見た。一つ年少の友人は、外見だけではもっと若く見える。ロイエンタールの素っ気ない返事に、足を止めてきょとんと言葉を探す顔は、まだまだ幼さが残っている。
「奇妙な贈り物が届くんだろう?」
「……俺の幕僚は、口が堅くて堅実なのが取り柄だったはずなのだが」
くっくっくとミッターマイヤーが笑う。その様子は士官学校時代の無邪気な少年そのもので、既婚者だというのにその匂いがしないのは、まだ子供がいないせいだとロイエンタールはつくづく思う。
「で、何が送られてくるんだ?」
「……知らんのか?」
「ああ、皆が勝手に噂してるだけだ。どうやら誰かが、卿の所に贈り物が届いたのを見たらしくて。だから誇りに思って良いぞ、卿の部下は卿が言うように皆、口が堅いようだ。部下を見る目はあるみたいだな」
「女を見る目はないと言いたいのか?…褒められているのかけなされているのか解らん」
「卿をけなした事なんてないよ」
ミッターマイヤーの笑顔が、一瞬翳りを見せた。軽快な彼らしくもない、暗い表情。
ロイエンタールには、その一瞬親友が何を考えていたか、ありありと、まさに手に取るように解ってしまった。唯一無二と言っていい友誼、片割れ。思い出したくもないのに、それを自覚すると顔を覗かせる黒い記憶。つい先日、目の当たりにした主君の崩壊――
ロイエンタールは茶化すしかなかった。こんな論法は、自分の質ではないと思いながら、それ以外にこの空気を忌避する術もない。
「確かに、卿に説教じみた忠告は受けることはあっても、無意味にけなされたことはないな。すべてが嫌みなくらい正論だ」
「ロイエンタール!」
「冗談だ、感謝している。ほら、卿の声は良く響くから、皆が怯えているじゃないか。」
何を思ったか、真剣に自分の名を叫ぶ親友に、ひらひらと手を振る。
我に返って周囲を見回し、顔を紅潮させるミッターマイヤーに、ロイエンタールは自嘲気味に微笑んだ。
「まぁ、あながち噂も馬鹿に出来んな。それともやはり、部下の口が軽いだけか」
「結局何が届いたんだ?」
冷静を取り戻したミッターマイヤーの問いに、少し考えて、金銀妖瞳の彼は青い片目を細めて、答えた。
「恋人を失った、さる傷心の御方の憂さ晴らしだよ」
「……やっぱり手酷い振り方をしたんだな!」
違う、俺ではなくて、と訂正するのも面倒で、ロイエンタールは微笑んで誤魔化した。



気に入らないから下ろすかも。










こいごころ?



長い長い廊下だった。見覚えはあるが、なじみはない。確かにそれは屋敷の中で、けれども自分は滅多にそこに寄りついた事はなかった。
意識してさけていたのか、なんなのか。まだ失っていなかった第六感が何かを警告していたのか。
小さい自分の世界の中で、それは一番長い廊下だった。
常に薄暗く人気もないのに、手入れだけはされていて、それが逆に御伽話に出てくる幽霊屋敷みたいで不気味だった。
統一性のない芸術品が長い廊下に沿って並べられている。資産に見合った品性を欲した父親が、金で集めた――
「このひとはだれ?」
一枚の絵画の前で、ロイエンタールは立ち止まる。それはそれは美しい女性の肖像画。昔読んだお姫様の出てくる昔話の絵本にも、こんな綺麗な女性は居なかった、とロイエンタールは思った。
絵本の中に出てくるお姫様は、頬が桃色で薔薇色の唇、みんな同じ顔をしていたのに、肖像画の中の人は、それとは全然違っていて、まるで氷の中にいるように表情がなくて、それなのにぞっとするくらい綺麗だった。
後ろの侍女達がざわざわとざわめく。この屋敷に仕えている女達は、みんな顔を化粧で塗りたくりすぎて、真っ黒で表情がないとロイエンタールは思っていた。でも、それに誰も気付いていない。気付いているのは自分だけで、気付かないふりをして彼女たちに付き合っている。
「あらあらオスカー様ったら」
穴が空いたみたいに真っ黒い顔をした使用人の1人が言った。不必要に明るい声だ。腹の中は、顔と同じで真っ黒の癖に。
「覚えていらっしゃらないのですか?それはあなたの―――」


気が付けばそこは、幼少時を過ごした屋敷の廊下ではなくて、皇帝から下賜された屋敷の寝室のベッドの上。
白いシーツの谷間に、金髪が動くのが見える。
それが一瞬、あの肖像画の金髪と重なって心臓が跳ね上がった。湧いて出た冷や汗で身体が冷えて、体中の血管が沸騰したみたいに波打つのが収まった後、やっと冷静に彼はその金髪の主を呼んだ。
「……マインカイザー?」
「やっと起きたのか」
「起きていらしたのですか?」
顔だけをこちらに向けて、ラインハルトが唇を尖らせる。
「夢見が悪かったから早く起きてしまって暇だった。おまえのせいだ」
「……それは私のせいですか?」
起き出して、枕元に置いていたタオルで汗を拭いながら言う。シャワーを浴びて寝たというのに、寝汗で髪が額に張り付く。
「おまえのせいだ。おまえが夢に出てきたから悪い。」
「……私があなたの夢に?」
「そうだ、悪夢だった」
どこまでも素直でない皇帝の髪を、優しく撫でる。かすかに香水の匂いがした。
「またそんな意地悪なことを。夢に見る程私のことを思って下さったのですか?」
「自惚れるな」
ラインハルトはロイエンタールの手を払うけれど、本気で嫌がってないことくらい明白で、ロイエンタールは微笑んだ。
「それで、どんな夢を?」
「……夢の中でおまえがうなされてた。」
ラインハルトの声は低くて小さかったが、ロイエンタールは思わず撫でていた手を止めた。
「うなされて?」
「起きたら起きたで、おまえはまたうなされてるし。もう悪夢だ」
皇帝の頭の上に置いていた手を引っ込めた。それに気付いて、ラインハルトが顔を上げる。
澄んだ蒼氷瞳と視線がぶつかって、耐えられなくなって、ロイエンタールはそのまま皇帝を抱きしめた。
「……ロイエンタール?」
突然のロイエンタールの行動に、ラインハルトが戸惑いの声を上げるのも無視して、好きです、と呟く。
「なんだ急に。腹でも痛いのか?」
「……ちょっと」
黙ってて下さい、と言いかけて、ロイエンタールは自分の声が震えているのに気付いたから、結局それ以上何も言わずに黙った。
















焦げたクッキー



朝っぱらからこの状況は何だ。
鞄を下ろす事すら忘れて、ロイエンタールは目の前に突き出されたブツを見ていた。
可愛らしいピンクのりぼんでラッピングされたそれは、かすかに香ばしい香りを放っていて、透明の袋の中には恐らくクッキーらしい物体も見え隠れする。
「……これは何だ、新手の薬か。それともクッキーの中にチップでも内蔵しているのか。期末考査の問題の闇取引か。はたまた頭でも可笑しくなったか。いや、それは前からか」
「おまえちょっとは俺に説明させろ」
目の前のその物体自体とても受け入れがたい物だったのに、それを付きだした相手を直視する事なんて、彼の繊細なハートではとても不可能だった。
相手の言葉を遮って言いつのる。相手に主導権を渡してはたまらない。そんなことをしたら最後、何を宣告されるか!
「頭がおかしいおかしいとは思っていたが、これくらいで俺が毒殺できるとでも思ったかビッテンフェルト。その気があるなら受けて立つが。」
「冷静な顔して地味に混乱するな!俺が困るだろう!」
軽くパニックを起こす同輩の肩を、ビッテンフェルトがゆさぶる。加減とか限度を知らない彼に、かくんかくん身体を揺らされて酔いそうになって初めて、ロイエンタールは我に返ってその腕をはたき落とした。
「…加減を知れ!」
「おまえが俺に喋らせないからだろう!」
「知るか!朝一にこんな物を男から渡されて気分の良い奴があるか!何を盛られたか解ったもんじゃない!」
「どこまで人間不審なんだ日頃の行いを反省しろ!だいたいそれが、ホワイトデーにクッキー作りすぎたから分けてやろうという心優しい友人に対する態度か!」
「どこが心優しいんだ!」
ロイエンタールの声に、教室にいた生徒が一斉に振り返る。彼の声は良く通るのだ。普段冷静にお高くとまっている(と周りから思われている)分、それはとてもよく目立った。廊下にいた連中までが、なんだなんだと窓から顔を覗かせる。
注目されてロイエンタールは一瞬怯んだが、無視することに決めた。それより目の前の問題を片づけるのが最優先だ。
ホワイトデーと言うことは、バレンタインデーに何か貰ったと言うことか、この猪は。物好きな女もいた物だ、と心の中で呟いてから、続ける。
「しかも友人だと?根暗で貴族で片目に青カビが生えてる、と正面切って言った奴の台詞とは思えんな」
「それ幼年学校の頃の話だろ!いつまで根に持ってんだ…!」
「しかもクッキーが焦げてる。腹でもこわしてみろ、あと20年は根に持ってやる」
わざわざ袋を逆さまにして、底を差して指摘するロイエンタールに、ビッテンフェルトが噛みついた。
「おまえな、そんなだからいつまで経っても友達居ないんだ!」
「うるさい、いちいち叫ぶな猪。」
益々低レベルな言い争いに発展しそうになって、ロイエンタールは呆れて踵を返す。
事実を的確に差したビッテンフェルトの言葉は、今更ロイエンタールにダメージを与えることは出来なかったものの、頭を冷やさせるのには充分らしかった。
ロイエンタールが背中を向けてた後もビッテンフェルトはずっと何か喚いていたが、聴覚を見事に理性で遮断して、ロイエンタールは席に着いた。

その次の休み時間に、また同じように他の知り合いに焦げたクッキーを押しつけているビッテンフェルトを見て、ロイエンタールは舌打ちした。

―――何が友人だ!



こんな仲良いわけないじゃん(夢)あ、士官学校時代ですよ!











冷えたスープ



その貴族の女は最悪だった。
綺麗に結った髪に挿した簪、隙もなく塗り固められた白皙の肌、潤んでぽってりとした唇、シルクに包まれた指はとても細くなよやか。
仄かに香水が鼻腔をくすぐる、計算された巧妙さ。シャンデリアの下、マーメードドレスをまとって浮かび上がるその姿は、彼が見ても息を呑む程だったのに!
それがどうだ、手套の下の爪はよく手入れもされていない、水仕事なんかしない癖にささくれた指先。ペディキュアは爪の下半分が剥がれて、見るにも耐えない。……せめて女ならマニキュアを塗る前に甘皮の手入れくらい。
これで金髪までもが偽物だったら、それこそ我慢ならなかっただろうが、それだけはどうやら自前らしくて(しかもそれが彼女の自慢らしい)、梳いていないはずなのに絹糸の様な髪が白いシーツの上に広がっている様は壮観。

「……俺はこの前から、酔った卿にその話を聞かされるのは四回目だ。」
「ん?そんなに喋ったか?」
「『なんだかんだ言いつつ卿には珍しく続いてるんだから良いじゃないか』。この台詞に聞き覚えはないか?」
「……ふむ、そういえば3回程聞いた気がする。」
いつからおまえはそんなキャラになったんだ!と突っ込みたいのを、疾風ウォルフはビールと一緒に飲み干した。
いつから、いつからだ。その例の女と付き合いだしてからか。それならこれは、もしかしなくても良い傾向なのではないかと親友思いの疾風ウォルフは思う。
この親友は、(単純)明快な彼には理解できないところが多々あって、女の趣味もその一つで、いつも見た目ばかり綺麗な女を連れてきては別れるを繰り返している。(と、一概に括られては、さすがのロイエンタールにも反論したい所はあるだろうが)
金銀妖瞳を伏せたまま、ウイスキーを舐めるように飲む親友にちらりと視線を送る。最近何やら思案気味な彼は、そんなミッターマイヤーの一瞥にも気付かない。これも何とも彼らしくない。彼らしくないことが良い傾向と言えば、さすがに親友といえども失礼だろうか?
「まぁ、うまく行ってるなら良いじゃないか、何か不満でもあるのか?」
「不満は、ない。料理もうまいし。」
「良い事じゃないか!どうせ卿は料理なんて出来んだろう。奥方が料理上手に越したことはないぞ!」
「また卿は一足飛びに結婚に結びつけていないか?」
「卿が過剰反応しすぎだ。そもそもそんな可能性を捨てきれるのか?」
そうか、とあっさり納得する。ロイエンタールがこんなに素直なのは珍しい。寧ろおかしい。これはますます、ますますなのではないだろうか。
「まぁ、何かあったら相談に乗ってやろう人生の先輩として!」
「……1人の女としか寝たことない癖して何が先輩だ」
「1人の女に情熱を注ぎ続けるのがどれだけ大変か、卿には想像もつかんだろう!」
……決して交差することのない2人の価値観、不毛すぎる言い争いの幕が、ここに切って落とされた。


結局その後、ミッターマイヤーの親友を思う、熱く明るい結婚生活の展望に関する説教の成果も実らず、ロイエンタールはいつもの如くその女と別れたらしくて、更生の機会を逃したと悔しがる疾風ウォルフの姿があったとか、なかったとか。



しまった、最初予定してた話と全然違うのになった…!冷めたスープ貰ってないじゃん…!












安全ピンの付いた外套



この皇帝はどうしてこうも、予想外の要らん事をしでかしてくれるのか。確かに、外したマントを無造作に椅子に掛けていた自分にも悪かっただろうが!
ロイエンタールは自分の非を素直に認めながらも、見事に裂けた青いマントを取り上げた。
「案外脆いんだな」
「あなたが無茶したんですよどんな力の入れ方をしたんですか、全く!」
裂け目から飛び出た繊維をつまむ皇帝に、刺々しく言ってみても気にした様子はない。
椅子の脚に噛まれていたマントを、取ろうと無理矢理引っ張って、見事破いてしまったラインハルトの口調はまるで他人事のようで。
「あー、そんな事言う。わざわざ予が取ってやろうと思ったのに」
「だからって破る人がどこにいますか!」
「ここにいる!」
むっと頬を膨らますラインハルトに、そんな問題じゃないと反論するのも何となくばからしくて、ロイエンタールは溜息を吐いた。
「とにかく、当分はマントなしで行くしかないですね。幸い式典もないですし」
「予との軍議はあるぞ?御前会議に略式で来るのか?」
「誰のせいですか!」
ロイエンタールが意図したよりも大きな声が出て、皇帝が驚いて眼をぱちくりとさせる。その表情に、ロイエンタールは自分の非礼にはっとした。
ラインハルトは別に気分を害したとかではなく、突然の大きな声にびっくりしただけだったのだが。
「……申し訳ありません。口が過ぎました」
「別に、だってほんとの事だろ」
滅多に見せないロイエンタールの殊勝な態度が、ラインハルトの笑いを誘う。
「破れが気になるなら、止めておけば良いんだ」
にこにことラインハルトが言って、机の引き出しから安全ピンを取り出す。
あ、とロイエンタールが思うまもなく、ラインハルトはそれで破れた部分を止める。
「ほら、これで良いじゃないか!」
「……良くありませんよ」
安全ピンで辛うじて吊られた裂けたマントは、不格好そのもので。
「大体、安全ピンなんか……穴が空いてしまったじゃないですか」
「………おまえ、文句多い」
ラインハルトはあからさまにむっとして、その安全ピンの付いた青いマントを、ロイエンタールに押しつけた。













砂糖のたくさん入ったコーヒー



部下が入れてきた、茶色く濁った液体を口に付けたロイエンタールは、数秒沈黙した後、唇を最小限動かして、呻いた。
「……これはもう、飲み物以前に凶器だ」
「お気に召しませんでしたか、閣下」
「やはり卿の仕業か、ベルゲングリューン!」
がんっと机を叩くが、彼はさしたる反応も示さなかった。逆に従卒の少年が大きく肩を竦める。
大きな瞳が泣きそうに歪められるのを見て、大人げなかったと反省する。咳払いをするが、ベルゲングリューンの背を正すことすら叶わない。いつからこんなに、自分の権限は弱くなくなったのか。
「とにかく、入れ直してくれ。飲めない」
泣きそうな顔で出て行く従卒の少年の背中に、ベルゲングリューンが声を投げる。
「砂糖とミルクを倍に」
「ちょ、待て!それは既にコーヒーじゃなかろう!」
入れ違いに入ってきたレッケンドルフが、驚いて書類を取り落としそうになる。戦場で敵に包囲されても、艦隊戦で敵艦に照準を定められても、決して取り乱すことのなかった帝国珠玉の宿将がここまで醜態をさらす姿なんぞ早々見れる物ではない。しかもその原因が一杯のコーヒーときた。
「閣下、コーヒーがどうなされたのですか!?」
「ランベルツ!砂糖の量、三倍でも良いぞ!」
「くどいぞベルゲングリューン!」
執務室内を、悲痛な(悲痛なのはロイエンタールだけだが)怒号が飛び交う。未だかつて、この司令部がここまで混乱したことがあっただろうか。
「だいたいこれですら充分甘くて飲めないというのに、三倍も入れてみろ!ただの濁った砂糖水じゃないか!卿は俺を糖尿病にしたいのか」
「それで少しはご自分の身体を顧みるようになられたら万々歳です。」
「目的と手段が逆になっているだろう!」
言いながら、さりげなくコーヒー(ロイエンタール曰く凶器)を手元から遠ざける。レッケンドルフがそれを察して、コーヒーを下げた。
「大体、卿は俺のなんだ。母親か女房か。キルヒアイスの下に居たときも、そんな世話焼き性を発揮していたのか」
「お言葉ですが閣下、キルヒアイス提督は徹夜明けにアルコールを浴びるように飲んで酷い二日酔いになったことも血糖値とコレステロール値が高いと言われたことも胃が荒れているのに眠気覚ましにコーヒーに依存されたことも他人に誤解されるような不穏当な発言をなさったこともございませんが」
「……最後が特に棘があったような気がするのだが」
「気のせいです。」
きっぱり言い切って、それから。
「次の健康診断でまた胃が荒れていると言われたら、次はアルコール断ちして頂きますからね」
「……横暴だ!」
ベルゲングリューンの宣言に、ロイエンタールは悲憤した。



ベルゲンはロイたんのママで。
















甘くない夜



「卿は一体何を期待していたんだ」
皇帝の声はあくまで美しい。それが戦いの中で熱を持って膜を張っていても、怒りで氷のように冷たく鋭くても、今のように体温を持たない人形みたいな声でも。
自分と皇帝を隔てているのは薄いブランケット一枚の筈なのに、眼前の皇帝の顔も声もまるで遠く離れて、超光速通信で画面の向こう側にいる通信相手のよう。
「何を、と申されましても」
「予を抱けば、予が情に流されるとおもったか?」
まさか、とロイエンタールは喉の奥で笑った。そんな事端から期待していない。
この皇帝はどこまで鈍いんだろう!まさか自分の魅力をここまで解っていないとは。高嶺の花は手が触れられないから美しいというのに。
「あなたが私ごときに流れるようなお方なら、最初から抱いていませんよ」
微笑んで言う。鏡はないが、多分極上の笑みだと自分で知る。皇帝はそれでも、全く動じない。
ロイエンタールの感情を、自分には決して理解できない物と理解したのか、それとも身体の関係だけが望みだと思ったのか、皇帝の瞳に浮かぶのは侮蔑ばかり。
――その表情、それがいい。
「卿はつくづく何がしたいのか解らん」
「あなたは私の理想ですから。理想が現実に負けられては困ります。」
「……卿と喋ってると、自虐的すぎてこっちの胃が重くなりそうだ」
「せめてもう少し、色気のある例えを探して下さい」
髪に触れると、うるさそうに頭を振る。セックスの後だというのにキスすら許さない。
なんて心地良いだろう、最後まで身体を合わせても、遂に彼は自分に堕ちなかった!
「……嫌がられてるのに、そんな嬉しそうな顔をするな気持ち悪い。これは何だ、えすえむぷれいか。オーベルシュタインにでも感化されたか。」
「まさか」
ずっとずっと前から、欲しかったのは身体ではない、この確信。



なんでこいつらは常にベッドの中に居るんだ。









mehr Licht!



もうこの光景をを眺めることは二度とないだろうと、司令室の目前に広がる悠久な空間に視線を漂わせる。強靱な自制心――部下達の買いかぶりには笑わせられる!そんな立派なものを自分がいつ持っていたか。気を抜けば途切れそうになる意識、間断なく襲う痛みの波にただ1人対抗しているのはただの自尊心、帝国の宿将と讃えられた自分が、無様な姿など見せられまい。旗艦を得て以来座り続けた司令座も、もうすぐ主を失って、地上に繋がれる。可哀想に。
この船と一緒に自分ももうすぐ地上に降りて、執務室のデスクだか、自分にはとても不釣り合いな病室のベッドの上か、とにかく宇宙からは遠く離れた地面の上で、自分は一生を終えるのだ。
遙か何光年も遠くにいる恋いこがれる光源(=皇帝)は、その光が届かない程遠くて、自分を照らしていたはずの親友の姿もなくて、ああ、もう足元すらおぼつかない。



あと少し、せめてここが、―――に近ければ。